マイケルさんのMLB教室第⑦回

ヤンキース熱かったですね〜。
かっこいい!
しっかし、ま〜この試合のカードを1年間決めた人はすげぇ〜なぁ〜。
って実はこの対戦カード数十年もの間、野球好きの夫婦が決めていたらしいです。
すげぇ〜なぁ〜以上まめ知識でした。
あ!あとブリュワーズが13年ぶりに5割だそうです!
あ!×2ベーブ・ルース若いときは投手だったらしいですよ!
大打者はやっぱ投手から?

さ!今日紹介チームは
ロサンゼルス・ドジャース
非常に歴史のあるチームです。
ナショナル・リーグ西地区
全身は1883年のニューヨークにあったブルックリンクラブ
そして、1890年からナショナルリーグに所属。
加盟1年目に優勝を果たすが、長い低迷期が続く。

ワールドシリーズが6回制覇
リーグ優勝18回
地区優勝10回

スタジアムは「ドジャー・スタジアム」
チーム名の由来はDodgeは「ヒラリとよける」の意味がある。路面電車をヒラリヒラリと避けて歩いた当時のブルックリン市民が「トロリー・ドジャース」と呼ばれたことにちなんで。
監督はトム・クレーシー

20世紀初頭は同じリーグでジャイアンツがべらぼうに強かったのでとっちかというと日陰のチームに。
1914年から31年まで「アンクル・ロビー」と呼ばれるウィルバート・ロビンソンが監督が就任
ここから巻きかえし。
リーグ優勝3回優勝を果たす(1916 , 1920 , 1941 )
ちなみにこの間はドジャースではなくロビンスと呼ばれていた

世界一を経験することなく1942年この年負けたカージナルスから敏腕GMブランチ・リッキーを呼びここから再びいろんな意味で歴史的チームになることに。
リッキーのすごかったことは、マイナーリーグ構築。
そしてそして「黒人」選手の登用だった。
黒人選手へ門戸を開かせるためのリッキーの準備は周到だった。実力があるだけでなく、人格的にも優れた選手を見つけだす必要があったのである。各地にスカウトを送り、そのリストの中に名前が残った1人にロビンソンがいた。当時、ニグロリーグの名門カンザスシティモナークスのショートを守っていた26歳のロビンソンは、リッキーとの長い話し合いを行い、1945年シーズン終盤、ついに契約を交わすに至る。

1946年、ドジャース傘下のモントリオール・ロイヤルズに送りこまれたロビンソンは、数々の非難の中でのプレーを強いられたが、アグレッシブなプレーで困難を一つ一つ取り払っていく。人種差別が比較的に緩やかなカナダから始めたというのも、リッキーの計算の一つだったのである。
1947年、ついにロビンソンはメジャー昇格を果たす。黒人選手の登場に対戦チームはもちろん。チームメイトからも反対意見が集まる。遠征中はチームメイトと同じホテルに泊まれないなどの厳しい状況ではあったが、151試合に出場し、打率.297、12HR、48打点、29盗塁という成績を残して、この年から制定されたばかりの新人王を受賞。こうしてロビンソンはその実力で、時代の大きな壁を突き破ったのである。
ロビンソンを加えた1947年、ドジャースは6年ぶりにリーグ優勝を飾る。再びヤンキースとのワールドシリーズとなるが、熱戦が続き第7戦までもつれる展開も最後はヤンキース打線の猛打の前に敗れてしまった。しかし、ロビンソンが登場したこの年をきっかけに、ドジャースドン・ニューカムやロイ・キャンパネラらの黒人選手をチームに加え、ギル・ホッジスやデューク・スナイダーらと共に毎年のように優勝を狙えるチームへと変貌した。

ちなみにジャッキー・ロビンソンドジャースにしか所属しないまま引退しましたがメジャー初黒人選手として差別撤廃として
全チーム「42」は永久欠番としています。
1992年から野茂も含む(1995年)1996年まで、5年連続新人王を輩出するが。
1996年途中にはラソーダもユニフォームを脱ぎ、さらに翌1997年にはオマリー会長が球団を売却という衝撃が球界を駆けめぐった。1998年にはピアザや野茂を放出することになった。さらに1999年開幕前にはケビン・ブラウンと1億ドルを越える大型契約を結ぶなど、寄せ集めのチームに変貌してしまう。名将デーブ・ジョンソンを招聘するも効果はなくポストシーズンは遠かった。

ちなみに、野茂は新人王とオールスター先発とかなりやばかったです。
今年からはビリー・ビーンの右腕ポール・デポデスタがGMに就任
今年は振るわず大きく負け越し4位
これからまた歴史を作ってくれるか楽しみです。

有名選手は2003年、サイヤングと、最優秀救援投手のエリック・ガニエ(かなり好きです。)
ピッチャーだとデレク・ロウ
あとは・・・
バッターはJD・ドリュとかジェフ・ケントなどです。


さぁ〜次回はどこ〜にしましょうか?
今日はこのへんで。